【歴史秘話ヒストリア】中国革命の父・孫文とはどんな人!?医者だった??その波乱万丈な生涯!!




4月8日放送のNHK【歴史秘話ヒストリア】にて

実業家の梅谷庄吉について取り上げられ、梅谷と

友情を築いた、中国革命の父・孫文も紹介されます。

そんな歴史上の偉人について、名前と辛亥革命くらい

しか知らなかったので、気になり調べてみました♪

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プロフィール・略歴

名前   : 孫 文(そん ぶん)

中国では孫文よりも孫中山の名称が一般的

生年月日 : 1866年11月12日~1925年3月12日(享年58歳)

職業   : 政治家、革命家、初代中華民国臨時大総統、中国国民党総理

生涯   : 清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農家に生まれる。

9歳にして父を失う。当時のハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、1878年、

オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。

同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想

(特にキリスト教)に傾倒する孫文を心配し、1883年中国に戻された。

帰国後、イギリスの植民地の香港にある香港西医書院(香港大学の前身)で

医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで

医師として開業した。

清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月、ハワイで興中会を組織した。

翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、

日本に亡命した。住居の斡旋は犬養毅が行った。

1899年、義和団の乱が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。

1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と結婚した。

また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。

のちアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を

『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。

1904年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島

生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得。 以後、革命資金を集めで世界中を巡る。

孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。

東京府池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。

ここで東京に留学中の蒋介石と出会う。

1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに

呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。

孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、

翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。

1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である

「国民党」が870議席の内401議席を獲得。 同年7月、袁世凱打倒の第二革命

はじまる。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行。

1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国大皇帝に

即位する。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁は病死するが、

段祺瑞が後継者になる。

この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、「軍閥割拠」の状況であった。

孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東軍政府を樹立するが、

第一次護法運動は失敗に終わった。また、第二次護法運動は連省自治を主張する

陳炯明との路線対立により六・一六事変(中国語版)が勃発して失敗、蒋介石や

陳策らと共に広州を脱出した。尚、この時に孫文が脱出に使用した「砲艦永豊」は、

後に彼を記念して「中山」と改名された。

孫文は一時的に再び日本へ亡命した。日本亡命時に「明治維新は中国革命の

第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」と犬養毅へ送っている。

この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の宋慶齢と結婚した。

この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった。

1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。

1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議

によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で

「抗日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。

この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。

陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、

孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。

孫文(右)と蒋介石

1922年に日本の広東駐在武官となった佐々木到一は、当時、中国国民党の本拠

であった広東で国民党について研究し、その要人たちと交わり、深い関係を持った。

1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である

「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の

支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした。 この宣言は、コミンテルン、中国国民党

および中国共産党の連携の布告であった。

ソビエト連邦の支援の元、2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)。

1923年6月の中国共産党第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった。

1924年1月20日、中国共産党との第一次国共合作が成立。

軍閥に対抗するための素地が形成された。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる

国民革命軍の組織を開始する。

1925年にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のために

モスクワ中山大学が設立された。

1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。

同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う

。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、

欧米の帝国主義にたいし東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。

孫文の晩年の写真(1924年)

この頃より孫文はガンに侵されており、1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力

(革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節を遺言に記して

療養先の北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。

引用:Wikipedia

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どんな人だった??キリスト教徒で医者で好色家!?

前述の略歴にも載せておりますが、実は10歳頃からハワイに

移住した際に、西洋文化に傾倒し、その中でキリスト教徒の

洗礼を受けているそうです!意外ですね♪

そしてもう一つの驚きは、博士号まで取得してマカオで

開業医をやっていたことです!

個人で人の命を助ける医者から、国を窮地から助ける革命家へ

転身をされたのですね☆

そして最大の衝撃は、実は大の女好きであったのではないか

という疑惑ですね(笑)

1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と

結婚した。また、浅田春という女性を愛人にし、常に同伴

というところに衝撃を受けました(笑)

まぁ世界情勢が不安定で、今でいう単身赴任不倫ですが、

今の比ではない不安定さなので、ありうるのでしょうけど…

凄いな(笑)

そして結婚も三回しているのも、やはりモテたのでしょうね☆

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その波乱万丈な人生とは!?

欧米の植民地時代や世界大戦など、激動の時代に革命家という

物凄いリスクのある世界へ飛び込んだ孫文は、常に命を狙われる

立場にあったのでしょう。

クーデターや争いで失敗も多々あり、亡命も数々行いました

そして資金集めに世界中を帆走したり、様々な苦労をされたことは

想像出来ますね。

だからこそ、女性とずっと添い遂げるのは難しく、それでいて

女性の温もりを求めて、惚れた女性にはアタックをし続けたの

でしょうね♪

写真で見る限り、イケメンなので尚更、女性にも好かれた

ことでしょう(笑)

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まとめ

中国革命の父・孫文は、台湾だけでなく中国本土でも

国父と呼ばれる、人徳者であったのですが、実は、

キリスト教徒で元医者で、好色家でした(笑)

しかし、その激動の時代に翻弄されながらも大業を

成し遂げた彼は、間違いなく偉人ですね☆

最後までご覧頂き、ありがとうございました!

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